発病前のこと➀
当時の私は工場でフルタイム働くパートでした。
一日立ちっぱなし、動きっぱなしだけど、なれてしまえばいいのになんともなく。
体力があって、風邪一つひかない。
夜もすぐに眠れるし、便秘知らず。
ご飯もいっぱい食べられてました。
だからある春の日突然実家の母が脳梗塞で倒れても、平日の仕事終わりに2時間かけてお見舞いにも行けました。
週2回位通ったかな?
土日もどちらかはお見舞い。どちらかは息子の部活。
休み無しで過ごせてました。
既に膠原病では病院に通ってましたが、症状もなく『健康であることの確認』に通ってたようなものです。
兄弟達と頑張って母を支えましたが、秋の終わりに母はこの世を去りました。
自分の親がこの世からいなくなるなんて、判ってはいたけど、とてもショックでした。
ですが、私は涙を見せる事はできませんでした。
正しくはそんな余裕もありませんでした。
残された父が公的なことは何一つできない人なのです。
今まですべて母に任せっぱなし。
役所や病院すら行けないのです。
母が入院中に、母方の祖母、叔父、叔母が亡くなりましたが、すべて私が名代として一人で新幹線に乗り、地方の葬儀に参列しました。
葬儀の取り仕切りは自然と長女である、私に全て任されました。
母が亡くなった悲しみに暮れる暇もなく、霊安室では早く出ろと言われ、葬儀社を探し、親類に連絡をし、お金の心配をしました。
なんとか母の葬儀、初七日、四十九日の法要も終わり、仕事へ復帰。
我が家の経済事情もあり、早々に仕事へ復帰しました。
母の件で休んだり、早退したり多かったので、迷惑をかけた分、目一杯頑張ろう!!
そんなヤル気いっぱいで戻った職場の皆は、私を暖かく迎えてくれました。
『普段』に戻るのに、そう苦労はありませんでした。
仕事をし、息子の部活を応援や当番でサポートし、月二回程度ひとり暮らしになった父の様子を見に行く生活が続きました。
相変わらず、休める日はありませんでした。
いえ、、、休もうと思えば休めたのでしょう。
今思えば自分の体力を過信していたのかもしれません。
母の死から8ヶ月位経ったころ。
身体に異変を感じ始めました。
そこからは、、、坂道を転がるような猛スピードで、私という人格と身体が変わっていってしまったのです。